創業時期 初代金澤與市の時代
家伝(丸尾焼3代金澤武雄記述)によると弘化2年(1845年)創業。当時は天草は弘化の一揆があった時代であり、政情は混乱を極めていた。この時期に創業した理由の一つは、丸尾ヶ丘周辺に比較的良質な製瓶用の粘土が産出したことと、農閑期における現金収入を上げることが狙いであったとと考えられる。金澤與一の生年は文政4年(1821年)であるから、製陶業を始めたのは44歳の時に当たる。牛の首の瓶納屋として(瓶を造る工場の総称として瓶納屋と呼称した)開窯した。
創業の年代を特定するための資料として、丸尾焼旧登り窯(本渡市北地区区画整理事業において廃棄)脇に建立されていた道祖神によれば、慶応3年建立の文字が見え、この時期には確実に登り窯が存在していたことが伺われる。ただ残念なことに丸尾焼は創業期にはほとんどの製品が瓶・土管等の荒物と一般的に呼ばれるものを生産しており、年号等の入った、実作の時期を特定することの出来る作品を見いだすことは出来ない。
二代 金澤久四郎の時代
與市の死去によって金澤久四郎が窯を継承したのは、明治20年のことであるから久四郎28歳の時である。久四郎が窯を継承した前後は瓶や土管を製造する窯が相次いで開かれた時期(15頁その他の天草陶磁参照)でもある。 この時期に天草に多数の窯が相次いで開かれた原因は、士農工商制が瓦解して新たな家業を作り出すことが、必要になったためと考えられる。
久四郎の時代も與市の時代と同じく、主に瓶や土管等の製造された時期であり年代等の特定できる焼成物は存在せず(年号等の記入の無い瓶類は多数現存)荒物のみの生産であったことが伺える。この時期に金澤久四郎が作陶していたという事実を間接的に示す資料としては、丸尾焼旧登り窯(本渡市北地区区画整理事業において廃棄)脇に建立されていた大地主大神・秋葉大神の祠に大正3年1月7日の文字があり、金澤久四郎の名前が彫られている。又丸尾焼本渡馬場八幡宮内に寄進された狛犬の存在があげられ、寄進者として本戸村・陶器製造元 金澤久四郎、大正15年とある。
三代 金澤武雄の時代
金澤武雄は、明治24年(1891)丸尾焼2代久四郎の四男として生まれる。明治43年佐賀県立有田工業学校窯業科を卒業後、農商務省工業試験所に勤務し試験研究に従事する。
大正4年(1915)工業技師として山形県に赴任。千歳焼の基礎作りに尽力。千歳焼模範工場総務長に就任。
大正6年米沢市に米沢窯業場を新設、米沢市大火後の製瓦事業を展開。大正7年平清水陶磁器伝習所を新設し、同伝習所所長となる。
大正10年酒田市の酒田製瓦株式会社創設に尽力。
大正11年には天草に帰り、天草窯業株式会社技術顧問となる。以後工務部長、技師長となる。同年同社退職後、家業の製陶業に従事し、甕類・壺容器の製造に携わる。
大正14年熊本県から陶器製造講師、地方商工技師に任じられる。
昭和2年には、沖縄県商工技師に任じられ、内務部勧業課に勤務。昭和4年陶管や泡盛壺を製造する沖縄旭窯業株式会社創設に主任技師として尽力。
沖縄時代に浜田庄司と師弟関係にあり、浜田庄司を育てる。
昭和7年(1932)2代久四郎が病没したため、天草に帰り3代目として家業を継ぐことになる。当時は、主に陶管・甕類を生産していたが、時代の変化と共に小規模経営による陶磁器製造では、工業的な大量生産品に太刀打ちできない状況にあった。
昭和7年県立天草中学窯業部実習工場の創設に同校嘱託として奔走している。
昭和8年本渡市に肥州窯業株式会社が創設され、金澤武雄は総務主任となる。
昭和12年には、栃木県商工奨励館に勤務、益子町の窯業指導所の設立準備に従事し、昭和14年栃木県窯業指導所所長に就任した。金澤武雄は栃木県内で製陶会社の設立に尽力するが、終戦となり益子在住9年にして天草に帰郷することになる。この間、浜田庄司を益子に呼び、また益子の絵付職人であった皆川マスを全国に紹介したのも武雄であった。 戦後自家の製陶業に専念した。
四代 武昌の時代
昭和30年(1955)長男武昌が4代目を継承。瓶土管の需要は極端に少なくなり、変わって蛸壺類を生産した。蛸壺の需要も次第に頭打ちとなっていく。
昭和42年瓶類・土管類・蛸壺類の製造を中止し、日曜雑器を中心とした、小物類の生産へ転換を図ったのである、窯名も粘土の採土地である丸尾ヶ丘の地名をとって、牛の首の瓶納屋より「丸尾焼」と改称した。昭和43年 第一回本渡市商工会議所会員大会において百周年以上の継続事業所として感謝状を受ける。
熊本県より伝統的工芸品の指定を受ける。
以来、昭和55年5代金澤一弘が陶業を継承するまで、日常の暮らしに密着した陶器つくりの路線を着実に定着させた。
五代 一弘の継承
昭和55年(1980)一弘氏が、5代目を継承した。
一弘は20歳の時より熊本県工業試験場の伝統工芸後継者育成事業で、轆轤の製造技術及び石膏型の製造技術を習得し、昭和55年4月より丸尾焼の経営を任された。
丸尾焼は当時より本渡北地区の区画整理事業の区域内に存在し、平成7年工場と展示室が一体となった、新工房を建設。新工房は熊本県のアートポリス表彰事業で推進選奨を受賞した。
基本的な技法等は、3代武雄が農商務省技師として全国の窯を回り、釉薬を研究したデータやメモが財産として残されている。釉薬はその祖父が残した調合をそのまま使ったりアレンジして使う。黒、モスグリーン、乳白、透明、新透明の5種と染付の呉須鉄釉。
一弘氏の目指すものは、普段着感覚の焼物。
「豊富なバリエーション」
「当たり前のいつでも手にいる焼物」。
生活空間をより豊かにする、日用品としての陶器の可能性を求め、丸尾焼の焼物作りの確かな足どりが続く。
一弘が丸尾焼を継承して22年。この丸尾焼から熊本県内は言うに及ばず、多くの若い陶芸家が巣立っている、内訳としては佐賀県2名、福岡県1名、熊本県5名。
その他にも現在独立に向けて準備中の作り手が2名。工房にて独立へ向けて研鑽中の人間が数名存在している。
現在の丸尾焼は、年間の来窯者数が4万人を超え、轆轤を使用して製品を作る窯元としては九州を代表する窯の一つである。
丸尾焼の当主の生年と没年を参照すると。
初代 與一が文政4年生(1821年)・明治20年没(1887年)
二代 久四郎が安政6年生(1859年)・昭和7年没(1933年)
三代 武雄が明治24年生(1891年)・昭和51年没(1976年)
四代 武昌が大正15年生(1926年)・生存(昭和30年4代継承)
五代 一弘が昭和33年生(1958年)が昭和55年に5代目を継承し現在に至っている。